宗教の異なる人びとの間で多くの紛争があるのか?

OSHO 講話

宗教の異なる人びとの間で、
なぜこれほど多くの紛争が
あるのか?
世界はなぜこんなにも、
狂っているのか?

“Come, Come, Yet Again Come# 12”より抜粋

質問:
 日に日に世界はますます狂っていくようです。何が起こっているのか誰にも解らず、何もかもめちゃくちゃで混乱しています。新聞ではそう言っています。それは本当なのでしょうか? そしてもしそうなら、生の中にはすべてを安定に保っている内的なバランスというのがあるのでしょうか?
OSHO:
 世界は同じだ。それはつねに同じだった――めちゃくちゃで、狂っていて、正気ではなかった。実際、世界に起こった新しいことはひとつしかない。それは私たちが狂っているということ、私たちがめちゃくちゃだということ、私たちのところではなにかが根本的にまちがっているという気づきだ。そしてこのこと――この気づきは大いなる祝福だ。もちろんこれは単なる始まりにすぎず、長いプロセスのほんのイロハでしかない。単なる種にすぎないが、この上もなく豊かな可能性を秘めた種だ。世界が現在ほど自分の狂気を意識したことはかつてなかった。世界はつねに同じだった。三千年の間に人間は五千もの戦争を戦ってきた。
 この人類が正気だと言えるだろうか? 人類史の中で人びとが互いに戦わなかった時代を思い出すことはできない――宗教の名において、神の名において、あるいは平和、人間性、宇宙的友愛の名においてまでだ。醜い現実を覆い隠すためのたいそうな言葉! キリスト教徒はイスラム教徒を殺し、イスラム教徒はキリスト教徒を殺し、イスラム教徒はヒンドゥ教徒を殺し、ヒンドゥ教徒はイスラム教徒を殺してきた。政治的イデオロギー、宗教的イデオロギー、哲学的イデオロギーは殺戮のための単なるうわべの飾り――正当化して殺戮するみせかけでしかなかった。
 そしてこういう宗教はすべて「宗教戦争で死んだ者には天国が約束されている。戦争での殺人は罪ではない。戦死は大いなる美徳だ」と人びとに約束してきた。これはまったく馬鹿げたことだ! だが一万年にわたる条件付けは人類の血の中に、骨の中に、髄そのものの中に深くしみこんできた。それぞれの宗教、それぞれの国、それぞれの人種が「我われは神に選ばれた民だ。我われが最高であり、他の者はすべて我われより下にいる」と主張している。これは狂気だ、そして誰もがこのために苦しんできた。
 ユダヤ人は彼らが犯したたったひとつの愚行の故にこの上もなく苦しんできた。それは「我われは神に選ばれた民だ」という考えだ。一度自分たちは神の選民だという考えを持ったら、他の民族に許されることはありえない。他の民族もまた神の選民なのだから。それにどうやってそれに決着をつけるのかね? どんな議論も決定的ではありえない。誰も神の隠れ家を知らないのだから、神に尋ねることもできない。証人として神を法廷に連れ出すわけにもいかない。となると、決着をつけられるのは唯一剣だけだ。誰であれ力のある者が正しいことになる。力が正義だった。何世紀にもわたってユダヤ人は本当に苦しんできたが、苦しみは彼らを変えなかった。実際は、そのために神の選民であるという彼らの考えは強まった。
 彼らに「あなたたちは選ばれた民だ」と告げるその同じ人たちが、選民はたくさんの試練を、自分の気骨を示すために多くの火の試練をくぐり抜けなければならないとも教える。私は神に祈るある年老いたラビの話を聞いたことがある――彼はひじょうに正気の人間だったにちがいない。彼は何年も何年も祈っていたがなにひとつ求めることがなかった。知っての通り、祈りとは一種の小言のようなものだ。毎日、朝も、昼も、夕方も、夜も、一日に五回も神に小言を言いつづける。神は飽き飽きしてきて、まったくうんざりしているにちがいない……。
 ところがそのラビはなにひとつ求めなかった。そうでもなければ、出口もあっただろう。もしそのラビがなにかを求めていたら、それが与えられて、「とっとと失せろ!」と追い払われていたにちがいない。だが彼はなにひとつ求めるでもなく、ただ祈るばかりだった。ついに神は「なぜお前はしつこく私につきまとうのだ? なにが望みだ?」と彼に尋ねた。するとその年老いたラビは言った。「ひとつだけです。そろそろ誰か他の人びとを選んでもいいときではないでしょうか? どうか、誰か他の人たちをあなたの選民にしてください。私たちは充分に苦しみました!」
 だがこれはキリスト教徒、ユダヤ教徒と、イスラム教徒、ヒンドゥ教徒だけのことではない。これまでに存在したあらゆる人間たちがまさに同じだった。民族的エゴ、宗教的エゴ、霊的エゴは、個人のエゴよりはるかに危険だ。個人のエゴは粗雑なものだからだ。見れば解る――誰でも解る程にあからさまなものだ。ところがそのエゴも民族的――「ヒンドゥ教は偉大だ」――ともなると、もう誰も自分のためになにかを要求しているのだとは考えない。間接的には実は、「私はヒンドゥ教徒だから偉大だ、そしてヒンドゥ教は偉大だ」と主張しているのだが。これは間接的で、微妙な、ずる賢い方法だ。「私が偉大なのは私が日本人だからだ。なぜなら日本人は太陽神の直接の子孫だから」とか、「私は中国人だが、中国人はもっとも文明化された人間、もっとも文化を身につけた人間だ」とか。
 西洋人が初めて中国の地に至り、中国人を目にしたとき、彼らは声を出して笑った。中国人は風刺漫画のようだった。人間というよりはむしろ漫画だった――顔からわずか四、五本の毛が伸びているだけ。しかもそれしか髭がないのだ! この中国人とは、いったいどんな種類の人間なのだろう? その最初の西洋人は日記にこう書いた。「我われはどうやら猿と人間の間のミッシング・リンクを発見したらしい」と。その一方で中国人たちはその日記になんと書いていたか?
 中国の皇帝までもが西洋人を見ることに大いに執心だった。色々話を聞かされていたからだ。西洋人たちは宮廷に招待された。西洋人を尊敬していたからではなく、いったいどんな種類の人間なのかと見るためだった。前代未聞のことだった。そして皇帝は笑いをこらえられなかった。西洋人を目にするやいなや彼は吹き出した。西洋人たちはひじょうに気まずい思いをした。「彼はなぜ笑っているのか?」彼らにはこう説明された。「あれは皇帝が敬意を払うやり方なのです。彼はいつも笑って、楽しみます。それが彼の客を歓迎するやり方なのです」と。だが真実は、皇帝は彼らが人類だとは信じられなかったのだ。
 皇帝は廷臣たちに「これはアフリカのジャングルから連れてきたのか? 猿のように見えるが」と尋ねた。これがエゴの働き方だ。相手はつねに考えられるかぎりの最低のものにされる。そしてその相手と比べて、自分を高く持ち上げるのだ。「日に日に世界はますます狂っていくようです」とあなたは言う。それは正しくない。世界はいつもこうだった。
 たったひとつ、新しいことが起こっている。しかもそれは祝福で、災いではまったくない。人類史上初めて、少数だが私たちがこれまで存在してきたやり方はどういうわけかまちがっていると人びとが気づき始めている。私たちの基盤そのもので根本的ななにかが失われているにちがいない、と。
 私たちが正気の人類に成長していくことを許さないようななにかがそこにある。私たちのまさに条件付けそのものの中に狂気の種がある。子どもはすべて正気で生まれるが、それからゆっくりゆっくり、私たちは子どもを文明化する。私たちはそれを文明化のプロセスと呼ぶ。私たちは子どもが自分たちが属する偉大な文化の一部に、偉大な教会、偉大な国家の一部になるように育てる。
 私たちの政治全体が愚かしいのだから、子どもも愚かしくなる。私たちの教育全体が醜い。私たちの政治は野望を、赤裸々な野心を意味するに他ならない――それは権力への野望だ。そして最低の種類の人間だけが権力に興味を持つ。深い劣等感に苦しんでいる人びとだけが政治家になる。彼らは自分が劣ってはいないことを証明したい。彼らはそれを他者に向かって証明したい。自分が劣ってはいないこと、自分が優越していることを証明したいのだ。
 だがもし自分が優れているのなら、その証明の必要がどこにある? 優れている人間はなにも証明しようとはしない。彼は自分の優越性にただくつろいでいる。それが老子が言っていることだ。優れた人間は自分の優越性を意識すらしない。その必要はまったくない。病んだ人間だけが健康について考え始める。健康な人はけっして健康について考えない。健康な人は自分の健康について意識しない。病んだ人間だけ、病気の者だけがそれを意識する。美しい人、本当に美しい人は自分の美しさを意識しない。醜い人だけが、自分が醜くないことを証明しようとして絶えず悩み努力しつづけるのだ。
 実際は、他人に対して「私は劣っていない、私は醜くはない」と証明することによって、彼はそれを自分自身に証明しようとしているのだ。他人は鏡の役割をしている。もし他人が「確かに、あなたは偉大だ」と言ってくれたら……。だが人がそれを言うのは、あなたに力があって、あなたが金持ちのときだけだ。そうでなければ誰もそんなことは言わない。誰があなたのエゴなどに興味を持つかね? 彼らの関心は彼ら自身のエゴだ。だがあなたに破壊する力があるとなれば、いやいやながら彼らは受け入れなければならない。
 アドルフ・ヒトラーは狂人だったが、ドイツではそれを言う勇気がある者はひとりもいなかった。多くの者がヒトラーが狂人だと感じていた。だが、彼が敗北して自殺したそのときになって自分はいつもそれを感じていたと書き始めた。一度もヒトラーに対してそれを告げなかった彼の侍医たちまでが。少なくとも彼らくらいは真実を言うべき立場の医師たちだったのだが。その彼らもヒトラーが病気であること、ひどく病んでいること、それも肉体的だけでなく心理的にも病んでいることを彼の前では一度も告げなかった。
 ヒトラーはたくさんの悪夢で苦しんだ。彼は絶えず殺されることを怖れていた。彼は自分が殺されるという考えに取り憑かれていた。それを怖れるあまり結婚もしなかったほどだ。彼が結婚したのは自殺することを決めてからで、そのわずか三時間前のことだ。女性を同室に入れることを避けるため、彼は一度も結婚しなかった。誰にわかる、相手の女がスパイで、敵かもしれないじゃないかというわけだ。眠っている最中に殺されるかもしれない、毒を盛られるかもしれない、と。
 彼は自分が愛するふりをしたその女性でさえけっして信頼しなかった。彼には友人はいなかった。誰かと親しくなるとは信頼するということだが、彼はあまりにも疑り深かったからだ。政治家は正気ではない、聖職者も正気ではない……。
 人類はつねに正気ではなかった。人類がつねにめちゃくちゃで混乱していたのは、虚偽によって養育されてきたからだ。だが現在ひとついいことが起こっている。少なくともわずかの知性ある若い人びとが私たちの過去がすべてまちがっていたということ、ラディカルな変化が必要だということに気づき始めているからだ。「私たちは過去から断絶することが必要だ。まったく新しく始めたい、まったく新しく始める必要がある。過去のすべてはまったく不毛な実験だった!」と。
 いったん私たちがあるがままの真実を受け入れたら、人間は正気になれる。人間は正気で生まれてくる。私たちが彼を狂気に駆り立てるのだ。いったん私たちが国家もなければ民族もないということを受け入れたら、人間はひじょうに穏やかに静かになるだろう。この絶え間ない暴力と攻撃はすべて消え去るだろう。もし私たちが人間の肉体を、そのセクシャリティを自然に受け入れたら、宗教の名において説かれてきたあらゆる愚かしさは雲散霧消するだろう。
 九十九パーセントの心理的病は人間の性的抑圧のゆえに存在している。私たちは人間を過去から解放しなくてはならない。それがここでの私の仕事のすべてだ。あなた方が過去を切り捨てられるように助けることだ。なにであれ社会があなたたちにしたことを、元に戻さなくてはならない。あなたたちが真実を映し出す澄んだ鏡のようになれるように、あなたたちの意識をきれいに、空っぽにしなくてならない。実在を映し出せるということが神を知るということだ。神とは実在を表す別の名前にすぎない。実在とは神なのだ。そして真実を知ったら、人間は本当に正気になる。
 真理は解放をもたらし、真理は正気をもたらす。
 真理は知性をもたらし。
 真理は無垢をもたらす。
 真理は至福をもたらし、真理は祝祭をもたらす。
 私たちはこの全地上を途方もないお祭りに変えなくてはならない。そしてそれは可能だ。なぜなら人間はこの地球を天国に変容するために必要なものをすべて持ってきているからだ。

(OSHO Times International 日本版101号/発行Osho Japan) 2004 OSHO International Foundation