ヒーリングは愛の機能

OSHO 講話

” ヒーリングは愛の機能 “

Healing is a Function of Love

Come Follow Me Vol.4より抜粋

 
親愛なるOSHO,
 集中的な精神療法の中では、患者は話しをしているかあるいは耳を傾けている、つまり内側から聴こうとしているかのどちらかです。後者のみに価値があります。優秀なセラピストは、とりわけ愛がある場合には、この予期しないものに耳を傾けるプロセスを高めるいろいろな方法を思いつきます。これは瞑想の形態ですか? 実際のところ、理想的には、セラピストと患者は両方とも一緒に瞑想していると言えるのでしょうか?

 
セラピーは基本的には瞑想と愛だ。なぜなら愛と瞑想なしにはヒーリングの可能性はないからだ。セラピストと患者が二つでないとき。セラピストが単にセラピストであるだけでなく、また患者がもはや患者ではないとき。その反面、セラピストがその人を治療しようとしないところで、自分と相手との深い関係性が起こり、患者がセラピストを自分自身と分離したものとして見ることがないとき。――これらの稀なる瞬間にセラピーが起きる。セラピストが自分の知識を忘れてしまい、患者が自分の病気を忘れてしまったとき。そして対話、二人の存在の対話があるとき、その瞬間、二人の間にヒーリングが起こる。そしてそれが起こったときには、セラピストは、自分は神聖なる力、神聖なるヒーリングの媒介としてのみ機能したのだということをいつも知るだろう。セラピストは患者と同様にその経験に対して感謝するだろう。実際のとろセラピストはその経験から患者と同じくらいに多くのものを得る。

 あなたがその人を患者として治療するとき、あなたは患者をまるで機械であるかのように扱う。ちょうど機械を改良し、調整しようと試みている職工のように、再び健康にしようと試みる。そうなるとセラピストは頭の中の自分の知識に引っかかっている専門家だ。彼はその人を別の人間としてではなく、まるで機械であるかのようにその人を助けようとする。彼は技術的には専門家かも知れないし、ノウハウを持っているかも知れないが、それほど助けにはならない。なぜならこの見ることそのものが破壊的だからだ。この患者を見ることそのもの、患者を対象として見ることが患者の中に抵抗を作り出す。患者は傷つけられたと感じる。

 注意して観察したことがあるかね。あなたがその人といて屈辱を感じないような、自分がまるで対象物として扱われたと感じることがないような、その人といて自分に対して深い尊敬を感じるような、そして機械としてではなく、ひとりの人として待遇されたと感じるような、そういう医者はほんのわずかしかいない。そしてそれがセラピストの問題となると、さらにそのことがあてはまる。サイコセラピスト(心理療法家)は自分の知っていること全てを忘れる必要がある。その瞬間、セラピストは愛に、流れるような愛にならなければならない。その瞬間、セラピストは相手の人間性を受け容れなければならない。相手の主体性を受け容れなければならない。相手の人を物におとしめるべきではない。さもないとあなたは最初の最初から、より偉大なヒーリングの力が降りてくるための扉を閉ざしてしまうことになる。
 
セラピストであるということはこの世で最も困難なことのひとつだ。なぜならあなたは助けるために知らなければならず、他方で助けるために知ったことの全てを忘れなければならないからだ。あなたは助けるために多くを知らなければならない。そして助けるためにその全てを忘れなければならない。セラピストは非常に矛盾したことをしなければならない。そしてそのときにのみセラピーが起こる。愛が流れ、セラピストが非常な注意を持って患者に耳を傾けるとき。そして患者もまた自分自身の内なる存在、自分自身の自己への無意識の語りかけに耳を傾けようとするとき。この聴くことが起こるとき、次第に、その深く耳を傾けることの中で二人の人はいなくなる。
二つの両極はあるかもしれないが……

 あなたが私に耳を傾けるとき、いつもヒーリングが起こっている。あなたが無心、無思考となり、あなたがそこにいないといえるほどに注意深く私に耳を傾けるとき、あなたはただの耳となり、ただ耳を傾け、吸収する。そして私はまったくここにいない。そしてある稀なる瞬間に、あなたもそこにいないとき、ヒーリングがある。突然あなたは癒される。あなたの知らないうちに、あなたは毎日癒されている。あなたの知らない内に、ヒーリングがあなたを取り巻き、ヒーリングの力があなたを取り巻く。
あなたの傷が癒され、あなたの暗闇が消え去り、あなたの限界が壊される。これがセラピーなのだ。
 東洋ではサイコセラピーのようなものがあった試しがなかった。なぜならマスターで充分だったからだ。サイコセラピストが今日知っているようなことは、東洋では何世紀にもわたって知られていた。その中に新しいものは何もない。しかし東洋ではマスター以外に精神分析家のような範疇を作り出すようなことはけっしてなかった。患者ではなく弟子がいるだけだった。

 ちょっとその違いを見てごらん。あなたが患者として私のところに来るときには、あなたは非常に醜いマインドを持ってくる。あなたが弟子として私のもとに来るときには、美しいマインドを持ってくる。私がセラピストとしてあなたを見るときには、その見ることがあなたを物におとしめる。私がマスターとして見るときには、その見ることがあなたをあなたの内奥の存在の高みへと持ち上げる。東洋ではけっしてマスターをサイコセラピストと呼ぶことはないが、マスターはこの世で知られた中で最も偉大なセラピストなのだ。ただ仏陀のそばに坐るだけで、何百万もの人びとが癒された。彼が移動するところにはヒーリングがあった。だがヒーリングについて語られることはなかった。それはただ起こった。ヒーリングについて語る必要はなかった。仏陀の臨在そのもの、そしてマスターからの愛の眼差し。そして弟子にはそれを吸収する用意があった……

 「患 者」という言葉は醜い。その言葉それ自身は醜くはない。それは非常に美しい語源から来ている。それは「忍 耐」と同じ語源から来ている。しかしそれは連想によって醜くなってしまった。
 弟子はまったく異なる。あなたは何かを学ぶために来た。治療されるためではない。しかも治療はおのずと起こる。セラピーの全ては学ぶことにある。実際、なぜあなたは精神的に病気になったのかね? なぜならあなたは何か間違ったことを学んだからだ。あなたは何かまったく間違ったことを学んでしまったので、それに捕らえられてしまった。あなたはあなたの条件づけを外すことのできる誰か、あなたが学んだことを捨て去り、別の道にあなたのエネルギーを向けるのを助けることのできる誰かが必要なのだ。それが全てだ。

 たとえば、ひとりの婦人が私のところへ来た。私は長年彼女を見ていた。彼女は私のところへ長年にわたって来ていた。初めて彼女が来たとき、彼女は、自分はセックスにまったく興味がないのに彼女の夫はひっきりなしにセックスを求める、と私に言った。彼女はそのことで非常に気分が悪かった。彼女はほとんど吐きけをもよおしていた。「どうすれば止めさせられるでしょう? 私は何をすべきですか?」と彼女は尋ねた。私はその夫に話し、夫に言った。「ただ一か月間、性的に興味を持たないように。一か月後には事態は良くなり、変わるだろう」と。一か月間彼は私に従った。その婦人は再びやって来た。彼女は言った。「私は非常に傷つけられたように感じます。
というのも私の夫は性的にまったく私に興味を示さないのです」そこで私は言った。「あなたは何が起こっているかを理解しなければならない。夫が性的に興味があるときには、あなたは夫に対してあるパワーを持っていた。あなたはそのパワーを楽しむが、同時に自分は利用されているとも感じる。というのも夫はあなたを性的に見るからだ。つまり彼はあなたをある満足の手段として見ることになる。あなたは利用されていると感じる」

 ほとんど全ての女性は利用されていると感じる。そしてそれが彼女たちにとっての問題なのだ。しかし夫が興味を持つことをやめれば、彼女たちは利用されていることについてすっかり忘れ、恐れるようになる。そして彼女たちは夫が遠くへ離れて行くと考え始める。すると彼女たちは夫に対してもはやパワーがなくなる。彼女たちは夫を所有しない。そこで私はその婦人に言った。「ちょっとその事実を見てみなさい。もしあなたが夫を所有したいなら、あなたは夫に所有されなければならない。あなたが夫を所有したいのなら、そのときはあなたは彼に利用されなければならなくなる」所有欲の強いマインドは所有される。何かを所有することは、それによって所有されることになる。多くを所有すればするほど、それだけあなたは自分のまわりに隷属を作り出すことになる。自由はあなたが所有欲を捨て去るときにやってくる。あなたが所有欲を捨て去るとき、そのときあなたは誰に対してもいかなるパワーも求めていない。そうなれば嫉妬は起こらない。そしてあなたが相手を所有しようとしないとき、あなたは自分のまわりに美しさをかもし出し、相手はあなたを物として見ることができなくなる。あなたは人になったのだ。栄光にあふれ、活気に満ち、キラキラと輝き、あなたは自分自身を照らす光となる。誰もあなたを所有することはできない。誰であれあなたに近づく人は素晴らしい美しさを感じるだろう。そしてあなたの存在をものとして考えることはできなくなる。

 今では全ての女性が苦しんでいる。それというのもまず第一に所有したいからだ。所有したいと思うとき、所有される。所有されると、「私は利用されている」と感じる。もし利用されないと、その時はパワーが消えてなくなっていくと感じる。そういうわけで女性はいつも苦しみの中にいる。そして男性も同じことだ。

 問題を深く見ていくことが癒されることだ。なぜならその見ることが、あなたはある間違ったトリックを学んでしまったのだということを、あなたに明らかにするからだ。捨て去れば……ヒーリングがある。人びとは精神的に病んでいる。なぜなら彼らは間違って条件付けされてきたからだ。誰もが競争するようにと条件付けされ、誰もが静かにしているように、穏やかでいるようにと教え込まれてきた。これはばかげている。あなたは両方でいることはできない。あなたは競争的であるか?のときはあ
なたは緊張したままでいることになる。あるいは静かでいて、穏やかで愛情深くあるかだ。そのときはあなたは競争的であることができない。
 あなたは二分法を教えられてきた。あなたは二つの方向に一緒に動くようにと教えられてきた。そしてあなたはそれを学んだ。あなたは謙虚であるようにと教えられ、そして絶えずエゴイスティックであるようにと教えられ続けてきた。

 社会は矛盾し、無節操であり続けている。そして社会はあなたに完全に間違ったことを教え続けている。そして病気が生じる。そしてあなたの内側に精神の混乱があり、あなたの内側に矛盾衝突がある。そしてあなたは何もかもが無秩序でめちゃくちゃになる地点にやってくる。あなたはマスターのところへ行くか、サイコセラピストのところへ行くかだ。もしあなたがマスターのところへ行くなら、あなたは弟子として行き、学ぶために行く。あなたは何か間違ったことを学んだ。それは捨て去らなければならず、何か新しいものを学ばなければならない。
 あなたが弟子として行くとき、あなたは屈辱を受けるとは感じず、そのことを幸せに感じる。しかしあなたが精神的な事情で行くならば、患者として行くならば、あなたは戸惑いを感じる。サイコセラピストのところへいくと、あなたは事実を隠したくなる。「人びとは知るべきではない。なぜならそれは自分のマインドがうまく機能していないことを意味するからだ」サイコセラピストのところへいくと、あなたはそれを隠したくなる。サイコセラピストは専門家だ。彼自身、あなたが抱えているのとほ
とんど同じ問題を抱えている。彼はあなたにとっていくらか助けになるかもしれないが、彼自身にとってはそれほど役に立たない。

 しかしマスターは問題を持っていない。マスターはあなたを途方もなく助けることができる。なぜならマスターはあなたを隅から隅まで見通すことができるからだ。あなたはマスターの前では透明になる。サイコセラピストは職業人だ。たとえ彼があなたの面倒をみるとしても、あなたに対してある種の愛を、愛情を示すとしても、それは職業的なジェスチャーだ。マスターはあなたと職業的に関係しているのではない。その関係性はまったく異なる。それはハートからハートだ。
 西洋では、今や非常に多くのサイコセラピーがある。だが助けになるという何の証明もなされていない。患者はひとりのセラピストから別のセラピストへ、ひとつのセラピーから別のセラピーへと渡り歩く。生涯彼らはひとつのドアから別のドアへと移動している。マスターが必要とされている。愛に到達した、悟りを得た人が必要とされている。しかし普通のサイコセラピーの中でさえ、もししばらくの間、患者がもはや患者ではなく、セラピストがもはやセラピストでないことが起こり、ある愛、ある人間愛が起こり、セラピストが自分の職業、職業的な関係性を忘れ、愛が流れると、ヒーリングがたちまちにして起こる。

ヒーリングは愛の機能だ。愛は最も偉大なセラピーだ。そして世界はセラピストを必要とする。なぜなら世界は愛を欠いているからだ。もし人びとが愛していたら、もし両親が愛していたら、もし教師が、教授が愛していたら、もし社会に愛情のある風潮がそのまわりにあれば、その必要はなかった。
 誰もが健康で幸福であるように生まれている。誰もが健康と幸福を探し求めている。しかしどこかで何かが欠けている。そして誰もが惨めになる。惨めさは例外であるべきだ。なのにそれがルールになってしまった。幸福がルールであるべきだ。なのにそれが例外になってしまった。私はブッダたちが生まれる世界、それでいてブッダがルールであるがゆえに誰も彼らのことを覚えていないような世界であってほしい。今では仏陀が覚えられている、キリストが覚えられている、老子が覚えられている。なぜなら彼らは例外だからだ。さもなければ誰が彼らのことなど気にする? もしどの家にも仏陀がいたとしたら、そしてもし仏陀たちが市場のいたる所にいたら、そしてどこででも老子に会うことができるとしたら、誰がかまったりする? そうなったらそれが簡単なルールになる。そうあるべきだ。
 老子は言っている。「この世が真に道徳的だったら、聖人になる可能性はなかった」世界が真に宗教的だったら、宗教の必要性はなかった。人びとは単に宗教的だ。宗教は必要ではなかった。秩序、規律があったら、自然の秩序と規律があったら、「秩序」と「規律」という言葉は存在しなかった。無秩序があるときに秩序という考えがやってくる。人びとは規律がないときにのみ規律について話始める。そして人びとは病気があるときにヒーリングについて話す。人びとは愛が欠けているときに愛について話す。しかし基本的にはセラピーは愛の機能だと言える。
 
この質問はセラピストからきている……
 私は彼に私のメッセージを彼の人生の中に持ち運んでほしいと思う。彼はすぐに帰るだろう。さあ行くがいい、セラピストとしてではなく人間として、二度と患者を患者として見てはいけない。その人を何かを学びにきた人なのだと思って見なさい。弟子のように。その人を助けなさい、しかし専門家としてではなく。その人を人間として助けなさい。そうすれば多くのヒーリングがある。より少しのセラピーで多くのヒーリングがあることになる。さもなければ、セラピーが何年にもわたって引き続いたあげく、結局ほとんど何にもならなかったことになる。あるいは、時には結果は有害なものにさえなる。
 非常におかしな習慣があったひとりの男について聞いたことがある。彼がパブに行くときには必ずワインを飲み、いつも少しだけグラスに残し、それをまわりの人びとに向かってまき散らした。彼は何度もぶたれた。それである人が助言した。パブのオーナーが助言した。「どうして精神分析家のところへ行かないんだい? あんたにはセラピーが必要だよ。なぜってあんたはこれまでずっと、ぶたれては、パブから追い出され続けているんだからね。またやって来たと思ったら、再び同じことを繰り返すんだから。何かが間違っていると思うよ。取りつかれているんだよ。」
 それで彼は行った。そして彼は三か月後に戻ってきた。彼は前より良くなっているようだった。パブのオーナーは尋ねた。「どこか精神分析家のところへ行ったのかい?
 三か月間姿を見せなかったからね」。彼は言った。「ああ。俺にとってとても助けになったよ」。「治ったのかい?」とオーナーは尋ねた。「完全に治ったよ」。しかし彼は再び同じことをしでかした。オーナーは言った。「これはいったいどういう治療なんだい? 同じことをやっているじゃないか」。彼は言った。「でも俺は完全に変わったんだ。以前は同じことをやって、罪の意識を感じていたんだ。もう俺は罪の意識を感じないんだ。精神分析家は俺を助け、罪の意識を直してくれたんだ。以前は戸惑いを感じていたんだが、今では悩まないですむのさ」

 これが西洋で起こったことだ。精神分析家は、ただ何も問題ではないと感じるように人びとを助けてきた。精神分析は深い責任を与えなかった。罪の意識を取り除いただけだ。罪の意識は悪い。それは取り除かなければならない。しかしそれは人びとが罪の意識を捨て去り、他方で責任の観念を学ぶようなやり方で取り除かなければならない。罪の意識は悪い。罪の意識は非常に危険だ。それはあなたを破壊する。それは傷のようなものだ。しかし責任を感じるということは、実に、非常に本質的なことなのだ。責任はあなたに魂をもたらす。責任はあなたに統合をもたらす。そしてあなたが責任を感じないかぎり健康な人だとは言えない。健康な人は自分が何をしていようと、自分に責任があるということにつねに気づいている。責任という観念そのものがあなたに自由を、威厳をもたらす。真正なる存在というのはそこから現れる。あなたはもっと現存するようになり、もっと「今ここ」にいるようになる。
 罪の観念は偽のコインだ。それは責任であるかのように見える。が、そうではない。罪の意識はあなたを意気消沈させる。責任はあなたに強烈さ、気づきの鋭さをもたらす。あなたは自分の中にさらなる統合を持つことになる。もっと一諸になる感じがする。

 西洋に行くがいい。だがセラピストとしてではなく、今ではあなたはサニヤシンだ。サニヤシンであることの責任を感じなさい。人びとを助けに行くがいい。そして人びとを助ければ、あなたも非常に助けられることになる。あなたが人びとを愛すれば、あなたも愛されることになる。あなたが人びとを癒せば、あなたがヒーリングの力とエネルギーの媒介となれば、あなたも癒される。そして人びとを癒している間、あなたはそのプロセスの一部なのだということを、あなたもまた癒されているのだということを、いつも覚えていることだ。人びとを教えている間、あなたも教わっている。何を学ぶにしろこの世で最良の方法は、教えることだ。だがマスターもまた弟子なのだということを覚えておきなさい。マスターは絶えず学び続けている。それぞれの弟子は新しいレッスンだ。そしてそれぞれの患者、弟子とワークすることは、新しい本、新しい人生を開けることだ。

 愛の報酬は非常に大きい。サニヤシンとして行き、患者が学び、捨て去り、変容されるために来るような環境をあなたのまわりに創りだしなさい。患者を事例として扱うのではなく、あなたが無力であるのと同じように無力な人間として接しなさい。そして塔から、つまり汝よりも神聖なるもの、相手より高潔なもの、相手より見識のある者という見地から見てはいけない。そのようなやり方で見てはいけない。そのようにして見つめることが暴力的だ。そうすると愛が不可能になる。人間として見なさい。
他の人と同じように無力なのだ。同じボートに、同じ苦境にいるのだと思って見なさい。あなたは助けになる。そして多くのヒーリングがあなたを通して起こるだろう。
~OSHO~

      
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(OSHO Times International 日本版48号) 2004 OSHO International Foundation