独りあること

OSHO 講話


 質問:  愛するマスター、弟子の『aloneness – 独りあること』と 勇気について何か仰って下さい。

 

アナンド・タラル、第一に理解すべきことは、あなたが望もうが望むまいが、あなたは『alone – 独り』だということだ。『aloneness – 独りあること』はあなたの『nature – 本性』なのだ。あなたはそれを忘れようとすることもできる、友だちや恋人をつくったり、群衆と交わることで独りにならないようにしようとすることはできる……だが、どんなことをしようが、それはただ表層に留まり続ける。内奥深く、『aloneness – 独りあること』には届かない、それは触れられずにある。

  一人一人すべての人間に奇妙な災いが起きている、人が生まれ落ちるとき、その誕生の状況は家族の中で始まる。それ以外のあり方はない、人間の子どもという のは 存在全体の中で最も虚弱だからだ。他の動物は完全な形で生まれてくる。犬は何処まで行っても生涯、犬のままだ、進化したり成長したりすることはない。そ う、犬は年を取る、老いる、だが、知性的になったりしない、気づくようになったりしない、光明を得ることはない。そうした意味ですべての動物は生まれ落ち たのと同じところに留まり続ける、本質的なものは何一つ変わらない。死と誕生は水平、一つの線の上を推移する。

 人間にだけ垂直に進む可能性、単に水平ではなく上昇する可能性がある。ほとんどの人間は他の動物のように振る舞っている、生はただただ『growing old – 老いる』だけで、『growing up – 成長』することはない。老いるのと成長するのとは全面的に異なる経験だ。

 人は人類の家族の下に生まれ落ちる。(生まれ落ちた)ま さにその瞬間から、人は独りではないのだ、それ故、人はいつでも人と一緒にいたいという心理を獲得してしまう。『独りあること』の中で、人は恐怖を感じ始 める……未知の恐怖だ。何を恐れているのか自分にも正確には分からない、だが、群れから出ると、内側の何かが不安になる。他者といれば、居心地がいい、安 心できる、快適だ。これが、人が決して『独りあること』の美を知るに至らない理由だ、恐怖がそれを妨げているのだ。

 集団の中に生まれ落 ちたがために、人は集団の一員であり続ける、そして、成長するにつれて、新たな集団をつくったり、新たな交友関係を 築いたり、新たな友だちをつくったりする。国家、宗教、政党といった既存の集団では満たされず、ロータリークラブ、ライオンズクラブなど自分自身の新たな 交際関係を築く。だが、こうした行為はすべてあるひとつのことを避けるための策略……決して独りにならないための策略だ。

 生涯を通じて経験するのは人々と一緒にいること。『独りあること』はほとんど死のように思えてしまう。ある意味でそれは死だ、それは、あなたが群衆の中で築き上げてきた『personality – パー ソナリティー』偽りの仮面”の死だ。パーソナリティーは他者からあなたへの贈り物だ。群衆から出た瞬間、あなたはそのパーソナリティーからも出る。群衆の 中にいれば、あなたは自分が誰なのか、正確に知っている、自分の名前を知っているし、自分が修めた学位も知っている、自分の職業も知っている、パスポー ト、身分証明書に必要なことは何もかも知っている。だが、群衆から出た途端……あなたのアイデンティティーは何なのか、あなたは誰なのだろう ?

 突然、あなたは自分は名前ではないことに気づく、それは与えられたものだ。あなたは○○人ではない、○○人であるということと意識にどんな関係がある ? あ なたのハートはヒンドゥー教徒でもイスラム教徒でもない、あなたの実存はいかなる政治的国境にも閉ざされていない、あなたの意識はいかなる団体や教会の一 部でもない。あなたは誰なのか? 突然、あなたのパーソナリティーは消えていく。パーソナリティーの死……それが恐怖なのだ。

 新たにあなたは見つ け出さねばならない、生まれて初めて自分は誰なのか、問わねばならない。「私は誰なのか」という事実に瞑想を始めなければならない、そしてまた、自分はも しかしたら全く存在しないのではないかという恐怖がある。もしかしたら自分は群衆のすべての意見の寄せ集め以外の何ものでもないのかも知れない、パーソナ リティー以外の何ものでもないということなのかも知れない。

 『nothing – 無』になりたい者などいない。 

 『nobody – 誰でもない者』になりたい者などいない。

 そして、実際のところ、誰もが『nobody – 誰でもない者』なのだ。

 非常に素晴らしい物語がある……アリスが不思議の国に到着した。アリスは王さまに出合った、王さまが尋ねた「アリスや、私のところへ向かっているメッセンジャーに出会ったかね?」

 アリスは答えた「誰にも会わなかったわ『nobody – 誰でもない者』に会った」

 王さまは言った「『誰でもない者』に会ったのなら『誰にも会わなかった』、何故、あやつはまだ着いておらんのじゃ?」

 アリスはひどく混乱した。彼女は言った「あなたは私の言うことを ちゃんと理解していないわ。『nobody is nobody – 誰にもっていうのは誰にもよ』『誰でもない者』は『誰でもない者』」

 王さまは言った 「『誰でもない者』が誰でもない者だというのは分かりきったことだ、だが、その『誰でもない者』は何処におるのじゃ。この時間までにはここに到着しておっ てしかるべきなのじゃが。まだ着いとらんということは『誰でもない者』はお前より歩くのが遅いということじゃな『お前より歩くのが遅い人はいない』」

 アリスは当然のことながら大層イライラして自分が話しているのは王さまだということを忘れてしまった。彼女は言った「私より歩くのが速い人なんていやしないのよ『誰でもない者』は私より歩くのが速い」

 さあ、会話は延々とこの『nobody』とともに進んだ。アリスは 王さまの“お前より歩くのが遅い者などいない『誰でもない者』はお前より歩くのが遅いを理解している……私は歩くの、速いんだからね。私、別の世界か ら不思議の国、小っちゃな世界へやって来たのよ、なのに、この人ったら侮辱してるわ。当然のことながら、彼女は王さまの侮辱に対して報復に出た「私より歩 くのが速い人なんていやしないわ《『誰でもない者』は私より歩くのが速い》」

 王さまは言った「それが正しいんなら、何故、あやつは到着しとらんのじゃ?」

 会話はこのように続いた。

 誰もが『nobody – 誰でもない者』だ。

 そう、だから弟子の最初の問題は本性である『aloneness – 独りあること』を正確に理解することにある。それは『nobodiness  – 何ものでもないこと』ということ、群衆からあなたへの贈り物である『personality – パーソナリティー、偽りの仮面』を落とすということだ。

 群衆から出ると、群衆からの贈り物を『aloneness – 独りあること』の中へ持って行くことはできない。『独りあること』の中であなたはもう一度新たに発見しなければならない、しかも、あなたがそこで、内側で誰かを見出すか、見出さないか、それを保証できる者はいない。

 『独りあること』に達した人々はそこに『nobody – 誰でもない者』を見出した。それはまさしく『nobody – 誰でもない者』を見出したという意味だ。名前のない、形のない、だが、ただただ純粋な臨在、純粋な生命そのもの、名のない、形のないもの。これこそがまさしく真の復活というものだ、そして、確かにそれには勇気が必要だ。歓びをもって自らの『 nobodiness – 誰でもないこと』、『nothingness –  無であること』を受け容れることができるのは本当に勇気がある人だけだ。無とは実存そのもの、それは死と復活の両方だ。

 今日、ハーシャが私 に、イエスが十字架に架けられ、天井を見上げな がら「父なる神とならんで叔父であるアラーがいれば良かっただろう に。少なくとも神が耳を貸してくれなくても、アラー叔父さんが手を貸してくれる……その方が良かった」と言っている素晴らしい一コマ漫画 を見せてくれた。

 生涯を通して神がいることだけで「私は神のただ一人の子だ」と高らかに宣言するほどイエスは幸せだった。イエスは神の家族、兄弟、妻、イエス以外の息子や娘については一切語らなかった。一体、永遠という 時間の中でイエスは何をしていたのだろう? 時間を潰したり、時間をやり過ごすためのテレビをイエスは持っていない。映画館が手に入る可能性は皆無だ。この哀れな男は何をし続けているのか?

 貧しい人にはそれ以 外に楽しみは何もないという極く単純な理由から、貧しい国々で人口が爆発的に増え続けるというのはよく知られた事実だ。唯一の楽しみは子どもをつくること だけ。それは長い目で見れば非常に高くつくが、たった今、その手には入場券もなければ、問題も、行列もない……。

 永遠という時間の中 で神は一体、何をしていたのか? たった一人、息子をつくっただけだ。その息子が今、十字架に架けられ、神に何人か兄弟や姉妹、叔父がいれば良かっただろ うに……「神が耳を貸してくれなくても、他の誰かに助けを求めることもできただろう」と思っている。

 イエスは祈りを捧げている、そして、腹を立てながら言っている「何故です? あなたは私を忘れてしまわれたのですか? 私のことは見放してしまわれたのですか?」だが、答はなかった。

 イエスは奇跡を待ち望んでいた。奇跡をこの目で見ようと集まっていた群衆も一人、また一人と姿を消し始めていた。あまりに暑かった、必要以上に暑かった。何も起こりそうになかった。何か起きるのであれば、既に起きていただろう。

 三時間が過ぎると、 三人の婦人しか残っていなかった、彼女たちはまだ奇跡が起こるかも知れないと信じていた。一人はイエスの母……当然のことながら、母親というものは自分の 子どもはありきたりの人間ではないと信じ続けるものだ。どんな母親も、ひとりの例外もなく、自分は“大物”を生んだと思っている。

 イエスを愛していたもう一人の女性は売春婦のマリー・マグダレーだった。彼女は売春婦ではあったが、心からイエスを愛していたに違いない。弟子たちですら……所謂12使徒、彼らはキリスト教の歴史の中で重要性においてイエスに次ぐ者となったが、彼ら12使 徒は捕まるのではないか、見つかるのではないかという恐怖から揃いも揃って逃げ出していた……というのも、彼らはいつでも何処でもイエスの周りをうろつい ていたからだ。群衆はけっして当てにならない……もし捕まりでもしたら、磔にされるかも知れない、磔にされないまでも、少なくとも鞭で打たれるかも知れな い、石を投げつけられて殺されるかも知れない。三人の婦人だけが残った。

 三人目もイエスを愛 していた女性だ。最後の瞬間まで残っていたのは女性という姿形をした三つの愛だった。弟子たちはただパラダイスへ入場せんがためにイエスと共にいただけな のに違いない。いつだって良いつながりがあるのはいいことだ、そして、神がもうけたたった一人の息子とのつながりとあれば、これ以上いいつながりはない。 神のたった一人の息子の後ろに付いていけば、パラダイスの門をくぐり抜けることができるだろう。彼らがイエスの弟子になったのはある種、私利私欲のために イエスを利用するものだったのだ、従って、彼らには 勇気はなかった。それは狡賢いものだった、だが、勇気はなかった。

 愛だけが勇気がある。

 あなたは『aloneness – 独 りあること』と勇気について尋ねている。勇気は愛から生まれる……あなたは自分を愛しているかな? この存在を愛しているだろうか? 存在からの贈り物で あるこの美しい生を愛しているだろうか? あなたにそれを受け取る用意ができていなくても、それを受け取るに値しなくても、それを受け取る価値がなくても 存在はあなたに生を与えてきた。

 あなたに生を与えてきた、瞬間、瞬間、あなたに生と滋養を与えてくれているこの存在を愛するなら、あなたは勇気を見出すだろう。そして、それは、あなたがレバノン杉のように独り立つ、星に届くほど高く、しかも、独り決然と立つ助けになってくれるだろう。

 『独りあること』の中でエゴや『personality – パーソナリティー、偽りの仮面』としてのあなたは消えていくだろう、そして、生命そのものとしての自分自身、死ぬことのない、永遠の生命そのものとしての自分自身をあなたは見出すだろう。独りになることができない限り、あなたの真実を求める探求は失敗し続けるだろう。

 『aloneness – 独りあること』、それはあなたの真実なのだ。

 『独りあること』、それはあなたの『divineness – 神聖であること』なのだ。

 マスターの役割と は、あなたが独りで立つのを助けることだ。瞑想 とはあなたのパーソナリティー、思考、マインド、身体との同一性をただ取り去り、あなたを内側で絶対的な独りにし、生きる炎とする手段だ。一度、生きる炎 が見つかれば、あなたは人の意識が知り得るありとあらゆる歓びとエクスタシーを理解するだろう。

 孫がスープ用のスプーンではないスプーンでスープをすすり、ナイフの持つべき方ではない方を鷲掴みにし、手でメインディッシュを貪り、その上、お茶を受け皿にぶちまけてフーフー息を吹きかけるのを老女は見た。

 老女は言った。

 「ディナーテーブルに着いたお父さんとお母さんはお前に何も教えてくれなかったのかい?」

 「教えてくれたさ」口を開いて咀嚼しながら少年は言った。

 「結婚なんか絶対にするもんじゃないって」

 彼は偉大なレッスン を学んでいた……独りのままでいること。他者 と一緒にいるのは本当に骨が折れる、だが、私たちは生まれ落ちたときから他者と一緒にいることに慣れている。それは惨めなことかも知れない、苦しいことか も知れない、拷問かも知れない、だが、私たちはそれに慣れ親しんでいる、少なくとも、それは広く知れ渡っている。

 人は『territory – よく見知った領域』を越えて暗闇へ踏み込むことを恐れる、だが、集合的な仮面という領域を越えない限り、自分自身を見つけることはできない。 グラウチョ・マルクスは記憶に留めておくべき素晴らしい発言を残した「私はテレビが教養を養うのに実に役立つということを発見した。いつでも誰かがテレビを点けると、私は別の部屋へ行って本を読む」

 10歳児のクラスの教師は性教育の授業を行うにはあまりにシャイだった。

 そこで、彼女は生徒たちにそれを宿題にする旨を告げた。

 小さなハイミーは父親に尋ねた、すると父親はコウノトリについて何やらもぐもぐ口ごもり、祖母は、お前はキャベツ畑で生まれたのよと言い、曾祖母は顔を赤らめ、子どもは大いなる存在の海で生まれるのだと呟くのだった。

 翌日、小さなハイミーは教師に調べてきたことについて発表するよう指名された。

 小さなハイミーは教師に「ボクの家の人は何処かおかしいんだと思います。どうも三世代に亘って誰もセックスしていないみたいなんです」と言った。

 実際のところ、愛し たことのある人は極く僅かしかいない、人々は愛しているフリをしてきた、この偽善者たちは他者を騙してきただけではない、自分自身をも騙してきたのだ。あ なたが存在して初めて本当に愛することができる。たった今、あなたは群衆の一員、車輪の中の歯車のひとつでしかない。そんなあなたにどうして愛することが できよう? あなたはいないのだ。先ずは存在すること、先ずは自分自身を知ることだ。

 『aloneness – 独 りあること』の中であなたはそこに何があるのかを発見するだろう。そして、その気づき、自分の実存に気づくことで、愛は流れる、そして、それ以上に多くの ものが流れる。『独りあること』があなたの唯一の探求であるべきだ。それは何も、山へ行かなくてはいけないということではない、市場にいながら独りでいる ことはできる。それはただ単にいかに気づいているか、いかに注意深くあるかという問題、自分はその『watchfulness – 油 断なく覚めているもの』でしかないということを忘れることなく油断なく覚めているかという問題だ。そうすれば、あなたは何処にいても独りだ。あなたは群衆 の中にいるかも知れない、山の中にいるかも知れない、だが、そんなことには何の違いもない、あなたはただいつもと同じ“油断なく覚めているもの”だ。あな たは群衆の中では群衆を、山の中では山を見る。目を見開いては存在を見、目を閉じては自分自身を見つめる。

 あなたはたった一つのもの、『watcher – 見守る者』だ。

 そして、この見守る者こそが大いなる理解、最大の成就だ。それがあなたの『buddha nature – 仏性”、“nature of enlightment – 生まれながらに光明を得ていること』生来、目覚めているということなのだ。

 これがあなたの唯一の『discipline – 守るべき規律』であるべきだ。『独りあること』を知る、それだけがあなたを弟子にする。そうでなければ、何があなたを弟子にするのか?    あなたは今までの生で一つ一つすべての点で騙されてきた。あなたはマスターを信じることがあなたを弟子にするのだと告げられてきた。それは絶対的に誤りだ、それが誤りでなければ、世界中の誰もが弟子だ。

 ある者はイエスを信 じ、ある者はブッダを信じ、ある者はクリシュナを、ある者はマハヴィーラを……誰もが誰かを信じている、だが、誰ひとり弟子ではない、というのも、マス ターを信じることは弟子であることではないからだ。弟子であるということは自らの自己である、真の自己であることの規律を学ぶことだ。

 それを経験すること の中に生の宝物が隠されている。それを経験することであなたは生まれて初めて皇帝となる、そうでなければ、あなたは群衆の中の物乞いのままだ。この世には 二種類の物乞いがいる、富める物乞いと富まざる物乞いだ、だが、物乞いであることに変わりはない。王や王女でさえ物乞いだ。

 このような人たちだ けが、自らの実存に、明晰さ、光の中に独り決然と立った極く僅かの人たち、自らの光を見出した人たち、自らの開花を見出した人たち、我が家と呼ぶことので きるスペース、永遠なる我が家を見出した人たち……こうした極く少数の人たちだけが皇帝だ。この宇宙全体が彼らの帝国だ。征服する必要はない、それは既に 彼らのものなのだ。自分自身を知ることであなたはそれを征服する。

 いいかな、マニーシャ

 

はい、OSHO


~OSHO/The Invitation #23  September 1 , 1987 Evening~