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OSHO 講話

“トータル・リラクセーション”

T o t a l  R e l a x a t i o n

“The Dhammapada:The Way of the Buddha, Vol 1″より抜粋

 全面的なリラクセーションは究極的なものだ。それは人がブッダになる瞬間だ。それは悟り、光明、キリスト意識の瞬間だ。

 あなたはたったいまは全面的にリラックスすることができない。奥深い中心ではいまだに緊張が続いている。

 だが、くつろぐことを始めなさい。周辺部から始めなさい――私たちはそこにいるし、ものごとは自分がいるところからしか始めることができない。自分の存在の周辺をリラックスさせなさい――肉体をくつろがせ、振舞いをくつろいだものにし、行為をくつろいだものにする。くつろいだ歩き方をし、くつろいだ食べ方をし、くつろいだ話し方、聞き方をしなさい。

 どんなプロセスももっとのんびりとしたものにしなさい。急いだり、焦ったりしないことだ。

 まるで永遠の時間があるかのように振る舞いなさい――じっさい、永遠の時間があるのだから。ものごとに始めと終わりがあるのだとしたら、私たちはここに最初からいるし、いちばん最後までここにいることだろう。だが、実際には始めもなければ終わりもない。私たちはいつでもここにいたし、いつまでもここにいつづけることだろう。形は変わりつづけるが、本質は変わらない。衣装は変わっていくが、魂は変わることがない。

 緊張とは性急さ、恐れ、疑いだ。緊張とは自分を守ろうとする、安全でいようとする、安心していようとする絶えざる努力だ。緊張とは明日のために、あるいは来世のためにいま準備をすることだ――あなたは明日を恐れているので現実に直面することができず、だから準備をする。緊張とは、ほんとうに生きることなくその傍らを通り過ぎてしまった過去のことだ。そのわだかまりが残っていて、いまに持ち越されて、自分にまとわりついている。

 生についてとても基本的なことを覚えておくといい――生きなかった経験は自分にまとわりついて、いつまでもそこに残っている。「私を終わらせてくれ! 私を生きてくれ! 私を完了させてくれ!」と。どんな経験にも最後まで至ろうとする、完了しようとする傾向が必ず含まれている。いったん完了すると、それは消えうせてしまう。まだ終わっていないと、そこにとどまって、悩みの種となり、あとをつけまわし、あなたの注意を引こうとする。それは言う、「僕をどうしてくれるんだい? まだ完了していないんだよ――最後までやりとげてくれ!」

 すべての過去が宙ぶらりんの状態でまとわりついている――なぜなら、あなたは本気で生きていなかったし、いつも逃げてばかりいて、適当に、生ぬるく、部分的にしか生きてこなかったからだ。そこには強烈さや情熱がなかった。あなたは夢遊病者のように、まるで夢のなかのように振る舞っていた。だからその過去がまとわりついて、一方では未来が恐れをつくりだしている。そしてこの過去と未来があなたの現在を、唯一の現実を押しつぶしてしまう。

 あなたは周辺からくつろいでいかなければならない。くつろぎの第一歩は肉体から始まる。いつでも思い出したら肉体に目を向けて、例えば首や、頭や、脚などに緊張がないかどうかを確かめてみるといい。もし緊張があったら、そこを意識的にリラッスさせなさい。肉体のその部分に意識を持っていって、やさしくこう言い聞かせなさい。「楽にしろよ!」と。

 すると驚いたことに、注意を向けた肉体の部分は、ちゃんと言うことを聞くし、素直にそれに従ってくれる――自分の肉体なのだから! 目を閉じて、足の先から頭のてっぺんまで体のなかのどこかに緊張がないか探ってみるといい。緊張を見つけたら、まるで友人に向かって話しかけるように、その部分に話しかけてみなさい。自分と肉体のあいだに対話をつくりだしなさい。それにリラックスするように言いなさい。「何も恐れることはない。私がここで見守っているんだから、リラックスしてもいいんだよ」と言い聞かせる。だんだんとそのコツがわかってくるだろう。すると肉体はリラックスするようになる。

 そうしたら次の一歩、もう少し深くまで進んで、今度は 心 にリラックスするように言いなさい。肉体が言うことを聞くのなら、心も言うことを聞くはずだが、最初に心から始めることはできない――第一歩から始めるしかない。途中から始めることはできない。多くの人たちが心から始めて失敗する。まちがった場所から始めるから失敗するのだ。ものごとはすべて正しい順序に従ってなされなければならない。肉体を自発的にリラックスさせることができるようになったら、心が自発的にリラックスするように手助けすることができる。心はもっと複雑な現象だ。肉体が言うことを聞くようになり自信が深まってくると、自分自身を新たに信頼することができるようになる。そうなると心でさえあなたの言うことを聞くようになる。心はもう少し時間がかかるけれど、それは必ず起こる。

 心がリラックスしたら、今度はハートをリラックスさせようとしてみなさい。ハートは感情、フィーリングの世界であり、さらに複雑で、もっと微妙だ。だが、いまやあなたには信頼があるから、自分自身を完全に信頼しきって進むことができる。いまではそれが可能であることを知っている。肉体にはそれが可能だったし、心にもそれが可能だったとしたら、ハートにもそれが可能に違いない。そうして初めて、これら三つのステップを通り過ぎたあとでなら、第四歩めを踏み出すことができる。あなたは肉体、心、ハートを超えた自分の存在の最も奥深い中心に入っていくことができる。自分の存在のまさに中心に。そしてそこもリラックスさせることができる。

 このリラクセーションがもっとも深い歓び、究極のエクスタシー、受容をもたらすことは間違いない。あなたは至福と歓喜に満たされる。あなたの生そのものがダンスの質を持つようになる。
人間を除けば、ほかの全存在がダンスを踊っている。全存在がとてもくつろいだ動きのなかにある。確かに動いてはいるが、それは完全にくつろいだものなのだ。木々は育ち、小鳥はさえずり、川は流れ、星々は動いている。あらゆるものが深いくつろぎのなかで進んでいく。急ぎも、焦りも、心配も、疲れもない。人間だけは例外だ。人間は自分の心の被害者になってる。

人間は神々よりも高く昇ることができるし、動物よりも低く堕ちることもできる。人間には広大な幅の領域がある。最も低いところから最も高いところまで、人間は梯子のようなものだ。
肉体から始めて、だんだんと深いところに進んでいきなさい。最初に基本的なところを解決しないかぎり、その先へ進んではいけない。肉体に緊張があったら、心から始めてはいけない。待ちなさい。まず肉体に働きかけなさい。そのとき、このちょっとしたことがこの上もない助けになるだろう。

 あなたはいつも一定のペースで歩いている。それは習慣に、自動的なものになっている。そこでゆっくりと歩こうとしてみなさい。仏陀は弟子たちによくこう言った、「とてもゆっくりと歩いて、一歩一歩をよく意識するがいい」。一歩一歩を意識的に歩いたら、ゆっくり歩かざるをえない。走っていたら、焦っていたら、意識することを忘れてしまう。だから仏陀はとてもゆっくりと歩く。
とてもゆっくりと歩こうとしたら、あなたはきっと驚くことだろう――肉体のなかに新しい気づきの質が起こってくる。ゆっくり食べたら、あなたはきっと驚くだろう――深いくつろぎを感じる。すべてのことをゆっくりやりなさい……古いパターンを変えて、昔の習慣から抜け出すがいい。
最初に肉体が、まるで幼い子どものように完全にリラックスしたら、そこで初めて心に取りかかることができる。科学的にことを進めなさい。簡単なものから始めて、より複雑なものへ進み、次はもっと複雑なものへと。そうして初めてあなたは究極の核心でくつろぐことができるようになる。

  あなたはこう尋ねている。「リラクセーションについてもう少し話していただけませんか? 私は自分の奥深い中心に緊張があるように感じるのです。いままで一度もほんとうにリラックスしたことがないのではないか、と」
あらゆる人間が同じ情況に置かれている。それに気がついたのはよいことだ――多くの人はそれに気がついていないのだから。気がついたのは祝福だった。気がつけば何か手を打つことができるからだ。気がついていなかったら、何もすることはできない。気づきは変容の始まりだ。

 あなたはさらにこう言っている。「先日、あなたがくつろぐことは最も複雑な現象のひとつだとおっしゃられたとき、私には次のようなことがひらめいたのです――それはリラクセーションの糸やレットゴー(手放し)の糸、信頼の糸などが複雑にからみあい、そこに愛の糸が織り込まれ、さらに受容、流れること、溶け合い、歓喜の糸なども加わった、重厚なつづれ織りのようなものではないか、と」
そのとおり、リラクセーションは最も複雑な現象のひとつだ――とても重厚であり、多次元的だ。これらすべてのものがその一部になっている――レットゴー、信頼、明け渡し、愛、受容、流れること、存在との溶け合い、無我、歓喜。これらすべてがその一部としてあって、リラックスすることを学んだなら、これらすべてのことが起こりはじめる。

“The Dhammapada:The Way of the Buddha, Vol 1″より抜粋

(OSHO Times International日本版96号掲載/発行Osho Japan) copyright 2003 OSHO International Foundation