Interview with Anupa

OSHO 瞑想のファシリテーターでもあるanupaのユニークなインタヴューを連載します。

今年の冬は特に寒いですが、OSHO 瞑想会はどうですか?

私が、この瞑想会で、OSHOアクティブ瞑想を紹介するようになって8年になります。例年、真冬には特にダイナミック瞑想には参加者は少ないのですけれど、日曜日の寒い早朝に、飛び起きるのも決意がいるでしょう。でも、今年は沢山の友人たちや初めての方々も参加して、それはそれは、ハプンしています。皆、それは元気です。

私達は皆、自分自身、一人で探求する瞑想者ですが、何人かの友人と共に瞑想することで、瞑想のエナジー・フィールドを容易に創造することができるのです。日本語にすると瞑想の磁場というのですかしら、それは、神秘で、美しい、もし魔法というなら、これでしょうと私は感じています。長い瞑想の経験者のエネルギーも、参加者、皆のエネルギーが、ここではブレンドされて、醸し出されています。初めて参加する人々も自然にその雰囲気にくつろぐことが出来、瞑想の沈黙を経験できるスペースということができます。

OSHOの瞑想は苦行ではないから、冬でも暖かい中でと、気を配っています。できれば、プネーのOSHOオーディトリアムような環境の整ったところで1年中、瞑想したいですね。でも、この東京にあっても、創造性のベストを尽くして皆で、瞑想を楽しもうとしています。



OSHOからもらったanupaという名前の意味はユニークネス、その意味とも長年試行錯誤した後、今では、とても気に入っていると彼女は言います。

当時、”OSHOの弟子になる”という人は、個人の、自分のチョイスで、OSHOに会い、そうしたいなら、彼から全く新しい名前をもらう事ができました。それは、サンスクリット語で、それは、人生のリセットを、全く感じるでしょう。私は、新しい名前を希望しましたが、できれば、”あいうえお”とか、”パピプペポ”みたいな簡単なもので、偉大な名前ではありませんようにと心で願っていました。

すると、OSHO は、あなたの名前は”あぬパ”だと言ったのです。それで、驚きながら、でも、”あ~簡単で良かった”と思いながら、安堵の笑いを浮かべてしまったのです。そのトタン、OSHOがanupaの意味を語り始めたのです。それは、なが~い話で、とても、その時の私には、理解できなくて、どうしたらいいのだろうと、パニックにも陥りました。


OSHOに初めて会ったのは、70年代の後半と聞きましたが。
そうですね、やっと彼に会いにプネーに(その頃はプーナと呼んでいましたが)行ったのは、78年のことです。

やっと、会えたといいますと?

74年にボーイフレンドとインドに行きました。今はムンバイと呼ばれるボンベイで、OSHOの存在を知ることとなったのですが、いろいろな、事情でOshoに会う事ができませんでした。その頃は、自由奔放にしていたつもりなのに、、、ボーイフレンドとのハネムーンのような旅だったので、彼に気を使ったのです。日本に戻り、いくつかの旅をし、それから、4年の後、やはり、、やっと、OSHOに会いに行きました。


小さい頃から、OSHOのような師を求めていました。幼稚園は、途中で止めてしまいました。戦争で息子を無くした祖父母と過ごす一日が、とても貴重と感じていました。小学校に入る頃、悟りを開いた先生に学びたいと思っていました。そうでないなら、学校には行きたくない。でも行かなくてはなりませんでした。小学校の4年生ぐらいから、やっぱり、学校はつまらないもので、先生たちは、あんまりだと感じていました。でも、”従順でいよう”という家族からの条件付けがいつもあり、優等生をしていました。たとえば、OSHOは、光明を得てから大学の教授になり講義をしていました。そんな彼が、もし、先生だったら良かった。でしょ?

中学生の頃、私は、バレーを学んではバレリーナを夢に見たり、ミージカル・スターになりたかったりの少女でした。ある時、憧れのバレリーナ達が、橘バレー学校のプリマ達だったと思いますが、滝に打たれている映像を見ました。それは、美しくて、ショックでした。彼女たちは、妖精たちのように見えました。

その後、私は16才の夏休みに、何を思ってか、断食道場に行きました。なぜだかはと、どうやって家族を説得したかと、詳しく思い返すと、まるで長い話になるから、それは、また、。でも、漠然として、”悟りたい”という夢もありました。ハハ。そこに、悟りを開いた先生がいると思ったからでしょう。先生は断食修行者として、立派な人でガンジーのように見えました。滝にも打たれていました。でも、残念ながら、1週間もすると、私は彼の弟子にはなれないと解りました。断食を終えては、大根をかじる、玄米と番茶、パンケーキやコーヒーのない世界。私は、1メートル57センチ、41キロしかなかったのに、37キロになってしまい2週間の断食予定を、10日で先生のストップが出ました。でも、断食の間、”光明を見たと感じた”、と信じたのです。それも、当たり前のことでしょう。健康な16才が、一日一升の水を飲み、何も食べずに海辺を散歩すれば、ナチュラル・ハイにどんなにかなるでしょう。小田原の海辺を散歩していた時、それで、ライトニングの瞬間を体験したと感じたのです。

その後、家に戻り、体重を調整するのが大変でした。祖母が協力してくれて、お料理をしてくれて、私は全くのベジタリアンになりました。それ以来、今日まで、ベジタリアンです。ですが、ふくれたり、へっこんだりしました。それが、私の尋常ではない人生の始まりとなりました。
20才になると、ボディコンになっていました。断食の後、体重と格闘し、リバウンドと闘争した結果です。キャンパスを、目にあまるミニ・スカートで歩いていました。

そして、悟りのことはすべて忘れようとしていました。恋愛や、ポップ・ミュージックに夢中になる事を選び、ロック・ミュージックを信奉していたのです。明けても暮れても、ロックと共にありました。

ラジオ局や、TVの番組で働き始めました。時代は、20才の私を放送作家として迎え、ロックを愛する感性に全ての扉が開かれているかのようでした。

ところが、そこで、又、”悟りを開いた師”を思い出させる、アーティストたちと出会うのです。たとえば、ザ・ビートルズも、グルを探しにインドに赴きましたよね。

やっと本題になりますが、The Whoのピート・タウンゼントのプライベート・アルバムの「Who Came First」、当時はレコードですが、ジャケットにそれは美しいグルの写真が裏にも中にもあったのです。友人がプレゼントしてくれたレコードです。その時のインパクトは凄かったです。初めて、神秘家を見たと感じました。メーハー・ババでしたが、その頃、既にこの世を去っていました。それが、再び自分の師を探そうと思った、きっかけとなりました。

メーハー・ババは、後に我が師であるOSHOが「この世の中に舞い降りた最も美しいグル」と呼んだ導師でしたが、それを聞いたとき、嬉しかったです。
そして、そのピートのアルバムには、愛が一杯でした。


OSHOに会った時、何か起こりましたか?
まず、彼は私が求めて来た、光明を得た、悟りを開いた人だと頭で感じていました。とても、美しい、微笑みに、迎えられました。次の瞬間にそこには、人のようなものはなく、それはただ、輝く、大きなエネルギーでした。
愛とか、至福とか慈悲とかと、言葉で表現することはできません。ただ、ただ、懐かしいエネルギーでした。しばらく、目を閉じて、沈黙する意外にはありませんでした。
3分間の永遠の沈黙がそこに在りました。目を開けると、その後、何かがすっかり変わってしまいました。

彼に、何か言いたいことはあるかと尋ねられました。
私は沢山の物語や、質問を用意して行ったはずなのに、なにも言葉はありませんでした。

続く